あんぱん千尋の海軍予備学生と特攻隊志願の史実とは?

※記事内にアフィリエイト広告が含まれています。

朝ドラ「あんぱん」

今田美桜さん主演NHK連続テレビ小説「あんぱん」でたかし(北村匠海)の自慢の弟で中沢元紀さんが演じる柳井千尋(やないちひろ)が海軍予備学生に志願する展開に!

今回は朝ドラ「あんぱん」やなせたかしさんの弟の千尋さんも海軍予備学生に志願したのか?史実と今後のネタバレをご紹介します。特攻隊志願にも志願した?

あんぱん千尋の海軍予備学生に志願のネタバレとは?

千尋が海軍予備学生に志願!

まずは、久々の千尋と崇との再会のネタバレをご紹介します。

1944年夏。入隊2年目となったたかし(北村匠海)は伍長になっていました。

ある日千尋(中沢元紀)が訪ねてきて、久しぶりの再会をするふたり。

千尋は京都帝国大学で法律を学んでいましたが、卒業が半年繰り上げられ、海軍予備学生に志願したのです。

千尋が海軍の士官になっていて、たかしはショックを欠かせません。

「あんぱん」に久々に登場した千尋は、とってもまぶしくてキラキラしていましたね。

千尋は駆逐艦で敵の潜水艦のスクリュー音を探知して、爆雷を投下する任務に就くといいます。

千尋の決意の理由とは?のぶへの思いも

「お前の口から爆雷を投下するなんて、聞きたくなかったよ」

法で弱い人をすくいたいと言っていた千尋。いつも自慢の弟だった千尋。

必死に語り掛けるたかしに、千尋はこう告げます。

「もう後戻りはできん」

家族やのぶ(今田美桜)、子どもたちを守るために戦う、と千尋は言いました。

5日後に佐世保から駆逐艦に乗るという千尋は、ある古びた手帳をたかしに託します。

それは父の清(二宮和也)が新聞記者として、中国にいたときにつけていた日記。

千尋は幼い時からずっと、のぶが好きだったことも告白しました。

「生きて帰れたら、もう誰にも遠慮はせん。今度こそのぶさんをつかまえる」

さらに胸の内を明かす千尋。

「愛する国のために死ぬより、愛する人のために生きたい」

涙を流す千尋に、たかしは「必ず生きて帰れ!」と言いました。

なんだか・・・このセリフが死亡フラグのように感じるのは、私だけでしょうか?

では千尋が海軍予備学生に志願したのは実話なのでしょうか?

モデルの柳瀬千尋の海軍予備学生と特攻隊志願の史実とは?

朝ドラ「あんぱん」で中沢元紀さんが演じている柳瀬千尋のモデルは、やなせたかしさんの実弟、柳瀬千尋さんです。

やなせたかしさんによると、長身のイケメンだったそうです♪

幼少期

千尋さんは1921年6月15日に、やなせたかしさんより2年あとに東京で生まれました。

名前の由来は「千尋の海」。とても長く深い、という意味だそうです。

千尋さんが3歳のとき、朝日新聞記者だった父親を亡くし、高知で開業医をしていた伯父、柳瀬寛さんの養子となりました。

清さんが亡くなる前から、子どものいなかった寛さんご夫妻が、千尋さんを養子にするという話があったそうです。

2年後に兄のやなせたかしさんも、一緒に暮らすようになります。

幼いころは体が弱かった千尋さんは、おかっぱ頭で赤い着物を着せられ、よく女の子と間違えられていました。

体の弱い子は、女の子のように育てると、上部になるという言い伝えがあったから。

寛さんとキミさんが、女の子をほしがっていたから、という説もあります。

体が弱くても、明るく利発な千尋さんは、周りの誰からも愛され、可愛がられた存在でした。

お兄ちゃん子で、一緒でなければいやだ、という幼少期だったそうです。

やなせたかしさんも、さぞ可愛かったことでしょうね。

学生時代

千尋さんは高知県の中学(現在の高知県立追手前高校)に進学し、柔道部に入部。

体もやなせたかしさんより大きくなり、運動も勉強もよくできたそうです。

当時は旧制高校に進学すると、帝国大学への道が開けるといわれ、かなりの難関。

学校でも優秀組にいた千尋さんは、7名しか合格しなかったうちの一人として、旧制高校(現在の高知大学)へ進学しました。

入学試験が厳しい学校で、一般的には最終学年の5年で受験します。

やなせたかしさんは4年の時、この受験に失敗していまが、千尋さんは4年で合格!

学校では寮生活をし、柔道部に入部。黒帯で二段だったそうです。

穏やかで優しかった千尋さんは、誰からも好かれていました。

酒豪としても知られていたそうです。

1939年、千尋さんが2年生になろうとしていた春、養父の寛さんが急逝しました。

大学に進学

1941年に千尋さんは京都帝国大学法学部に入部。現在の京都大学法学部です。

本当に兄弟ともに優秀だったんですね!

なぜ京都だったのか?

理由はわかりませんが、伯父で養父だった柳瀬寛さんは京都府立医学専門学校の学生で、養母のキミさんは京都出身。

おふたりは京都で出会い結婚されたので、千尋さんは何か思うところがあったのかもしれませんね。

大学では学生たちが自主運営していた「京都土佐塾」に入り、寮の仲間たちと学生らしい青春を謳歌されました。

千尋さんには小学校時代からの親友、広井さんがいて、一緒に京都の観光などもされたとか。

広井さんのアルバムにはこんな記載が(^^;)

「柳瀬君のあだ名は馬でありました。その顔の人並み以上に長いためでありました。」

門田隆将著『慟哭の海峡』より

やなせたかしさんも当時の千尋さんのことを、このように綴っておられます。

「僕のたった一人の弟は美少年です。少し顔が長すぎるが」

梯久美子著『やなせたかしの生涯』より

子どものころはまん丸で色白だったという千尋さんのお顔。身長とともに顔も伸びたのですね。

非の打ちどころのない好青年でしたが、女っ気はゼロだったそうです(笑)

ですが楽しかった学生生活に、戦争が忍び寄ってきました。

学徒出陣

1941年12月に太平洋戦争が勃発。

緊急勅令により、本来3年間だった学校生活が半年繰り上げとなり、1943年9月に卒業となりました。

文科系学生の徴兵延期が中止となり、学徒出陣が発令されます。

海軍予備学生に志願

千尋さんは卒業後、海軍予備学生に志願され、1943年10月に少尉任官。

海軍の初級士官を短期間で養成する、武山海兵団に入団されました。

終了後、対潜水艦探知装置を扱う分隊士になります。

学生の任務は、水中の音で敵の潜水艦を発見する、というもの。

養父の寛さんは音楽好きで、幼い時から洋楽のレコードを聴いてきた千尋さんは、聴覚に自信があったといいます。

このときの同僚によると、千尋さんは几帳面で冗談の少ない秀才肌だったそうです。

駆逐艦の呉竹に乗船

1944年5月。千尋さんがもうすぐ23歳になろうというとき、海軍少尉として駆逐艦「呉竹」乗船を命じられました。

呉竹は輸送船を護衛するため、最前線をいく船です。

このとき千尋さんは、敵の潜水艦の音を探知していたと思われます。

1944年12月30日。千尋さんが23歳のときです。

呉竹は台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡で、アメリカの襲撃を受けました。

バシー海峡は当時連合軍の統制下にあり、日本の戦艦が通ることは、極めて危険な行為。

ですが大事な輸送ルートでもあり、ここで多くの日本の戦艦が沈没している場所です。

魚雷を被弾し、前部分が吹き飛んだ呉竹。

千尋さんは対潜水艦探知室にいたと思われ、その場所は前方部分にありました。

このときの戦死者は140名で、生存者はたったの14名です。

柳瀬千尋さんの名が刻まれた慰霊碑があります。

柳瀬千尋さんは戦死後1階級特進し、海軍中尉の階級が与えられました。

戦後千尋の戦死を知るやなせたかし

終戦後の1946年にやなせたかしさんは復員され、すぐに高知の後免町に行きました。

やなせたかしさんを見て泣き出した伯母のキミさん。

「チイちゃんは死んだぞね」

骨壺のなかには、一片の木札だけが入っていて、遺骨はありませんでした。

泣かなかったというやなせたかしさん。

ぼくは泣かなかった。まったく見えないところで弟は消えてしまった。
名前のように。弟は千尋の深海に沈んだ。

アンパンマンの遺書より

特攻隊に志願!死因とは?

千尋さんが特攻隊に志願したことがわかっています。

やなせたかしさんは「アンパンマンの遺書」や「おとうとものがたり」で、弟が特攻隊に志願した、という記述をしておられます。

弟が海軍特攻隊を志願したとき、運よくぼくらは一度だけ逢えた。

「ぼくはもうすぐ死んでしまうが、兄貴は生きて絵を描いてくれ」

手をにぎりあいぼくらはわかれた

おとうとものがたりより

ですが千尋さんが特攻兵科へ転科したという記録はありません。

志願はしたけど特攻隊員にはならなかったのかもしれません。

やなせたかしさんが小倉の部隊にいたとき、海軍の制服を着た千尋さんが、訪ねてきたことがありました。

このとき千尋さんは「特別な任務に就くので最後のあいさつにきた」と告げ、詳しいことは言わなかったそうです。

千尋さんが任務に就いた、駆逐艦の対潜戦は死と隣り合わせの危険な任務。

攻撃を受ければ真っ先に戦死する場所での任務です。

そのような任務から「最後のあいさつにきた」と千尋さんは言ったのかもしれません。

特攻隊に志願した、というやなせたかしさんの記述もあります。

海軍に志願したとき、こう言われたそうです。

「特攻隊へ志願するものは一歩前へ」

やなせたかしさんが「やめたほうがいい」と言うと、千尋さんは答えました。

「全員が前に出るのに、自分だけでないというのは具合が悪い」

結局千尋さんは視力があまりよくなく、航空特攻隊には不合格となったそうです。

なので特攻隊に志願した、というのは事実かもしれませんが、みんなに合わせて志願したのでしょう。

千尋さんの特攻隊での戦死説にはいろいろありますが、特攻隊として戦死してはいません。

アメリカの魚雷により、船ごと飛ばされてしまったのです。

特攻隊に志願した、というのは、自ら進んで志願したわけではなく、当時の状況から志願することを断れなかった、というのが正しいのかもしれません。

あんぱんで千尋はどうなる?その後はまさかの戦死!?

崇は中国に!そして終戦を迎える

それでは、千尋は崇との再会の後どうなったのか?以降でネタバレをご紹介していきます。

その1か月後たかしたちは、中国の駐屯地に移動となります。

そこでは同僚の死や食糧難に見舞われ、嵩は幻覚を見るほど空腹と戦います。

過酷な状況を乗り越え、ついに終戦となり、1946年にたかしは復員しました。

柳井家にたかしが戻ると、千代子(戸田菜穂)がたかしを抱きしめます。

千尋は戦死?衝撃の顛末の死因とは?

「千尋さんは・・・死んだぞね」

嵩は立ち尽くしました。

のぶの夫、次郎(中島歩)が肺炎で亡くなります。

のぶはたかしに励まされ、前を向くように。

たかしの元に健太郎(高橋文哉)がやってきて、ふたりは職探しを始めます。

現在わかっているあらすじはここまでです。

千尋についての記載は少ないですが、史実に近い状態で描かれていました。

判明しているネタバレでは、千尋の死因などは明らかになっていませんが、明かされるのであれば、史実に近く描かれるのではないでしょうか。

ただのぶとたかし、千尋は史実では幼馴染ではありません。

たぶん千尋さんとのぶのモデル、暢さんは会ったこともないと思うので、のぶに関することは史実とは違います。

千尋は史実と同じような任務に就きます。モデルの千尋さんと同じように、船の上で戦死するのかも?と思います。

ネタバレには「特攻隊」は出てこないので、ドラマでも千尋は特攻隊ではない可能性が高いと思います。

 

まとめ

NHK連続テレビ小説「あんぱん」千尋が海軍予備学生に志願しました。

千尋のモデル、柳瀬千尋さんもドラマと同じように、卒業が半年繰り上げられ、海軍予備学生に志願しています。

このとき千尋さんは「特攻隊に志願するものは一歩前へ出ろ」と言われ、全員が前に出たので、出るしかなかった、といった記述が、やなせたかしさんの著書にありました。

ですが視力があまりよくなかったので、不合格になったそうです。

千尋さんは、水中の音で敵の潜水艦を発見する、という任務に就きました。

とても危険な任務なので、最後のあいさつにやなせたかしさんに会いにいったそうです。

機密事項なため、詳しいことは話さなかったという千尋さん。

やなせたかしさんの著書にも「特攻隊として」といった記載がありますが、勘違いされたのかもしれません。

実際に千尋さんが特攻隊だったという文献もなく、特攻隊ではなかった、という見解が正しそうです。

朝ドラ「あんぱん」でも「特攻隊」という記載が公式ガイドブックにありませんでした。

千尋さんの乗っていた駆逐艦「呉竹」は、千尋さんが任務中にアメリカから魚雷を被ばくし、前方が吹き飛ばされました。

千尋さんがいたと思われる場所は、船の最前線。

遺骨のないまま、ほかの140名とともに戦死となりました。

ネタバレでは、朝ドラ「あんぱん」でも千尋は戦死します。

千尋の戦死は、たかしが復員してから知らされます。

これは史実と同じです。

ドラマでは千尋の戦死の理由は明らかになっていませんが、史実と同じになるのかな?と思います。

呉竹乗員71柱を祀る慰霊碑は、大分県佐伯市と高知市に建立され、海自OBらが毎年献花を続けています。

朝ドラ「あんぱん」放送を契機に、参拝者が増え「柳瀬千尋」の刻名に手を合わせる人たちが増えているそうです。

朝ドラ「あんぱん」
drd777をフォローする

コメント

タイトルとURLをコピーしました