【あんぱん】のぶはたかしと再婚する?死別などモデルの史実から

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朝ドラ「あんぱん」

今田美桜さん主演NHK連続テレビ小説「あんぱん」ヒロインのぶは次郎と結婚しますが!と言うことは北村匠海さんが演じる柳井崇(たか)しとは再婚なのでしょうか?

朝ドラ「あんぱん」でのぶとたかしは再婚するのか?死別などモデルのやなせたかしさんと暢さんご夫妻の史実とともにネタバレをご紹介します。

【あんぱん】のぶは次郎と結婚する!モデル小松暢の史実とは?

のぶと次郎が結婚のネタバレ

1940年1月。のぶ(今田美桜)と次郎(中島歩)の祝言の話が進み、釜次(吉田剛太郎)たちがはりきっています。

そんな矢先、なんと寛(竹野内豊)が急逝します。

落ち込む嵩(北村匠海)にのぶは寄り添います。

嵩が東京に帰るとき、朝田家の前で次郎に会い、のぶと次郎が結婚すると知らされました。

精いっぱいの笑みを作り、嵩は東京へと戻ります。

その翌月、のぶと次郎の祝言が家族だけで執り行われました。

ふたりは高知市内に小さな新居を構え、のぶは汽車で学校に通っています。

戦争の影響で航海が中止になり、次郎が突然帰宅。

次郎の希望で朝田家に行き、楽しいひとときを過ごします。

のぶは次郎にこう告げました。

次郎さんと一緒に船に乗って、いろんな国に行ってみたい

次郎は次の航海からは、兵隊や軍需物資を運ぶための乗船になるとのぶに告げます。

大切なカメラをのぶに託した次郎。

のぶは「生きて帰ってきて」と口にすることができませんでした。

健太郎(高橋文哉)や嵩も次々と出征していきます。

戦争が激化するなか、のぶと次郎は結婚しました。

さて、のぶのモデル、小松暢さんの史実とは?

モデル小松暢の最初の結婚相手の史実

小松暢さんは1918年、大阪府大阪市で生まれ、大阪の女学校を卒業しています。

韋駄天おのぶと呼ばれ、短距離ランナーとして有名だったようです。

やなせたかしさんは東京で生まれ、高知県で育ったので、ドラマのように幼馴染ではありません。

お二人はのちに高知新聞社で出会うことになります。

小松暢さんは女学校を卒業後上京され、そこで日本郵船に勤務されていた小松総一郎さんと出会い結婚されました。

朝ドラ「あんぱん」中島歩さんが演じる若松次郎のモデルです。

暢さんの旧姓は池田です。小松暢は、最初の結婚のときの姓になります。

総一郎さんは暢さんより6歳年上。おふたりは1939年にご結婚されたので、暢さんが21歳のころでしょうか。

どのような出会いだったのかはわかりませんが、暢さんも日本郵船で働いていた、という説もあります。

暢さんの父親は高知県出身で、総一郎さんも高知県出身なので、話が弾んだのかもしれませんね。暢さんの父親をモデルにしたのが、加瀬亮さんが演じた結太郎です。

とてもハイカラだったという総一郎さん。暢さんにライカのカメラを贈ったそうです。

ということで、暢さんは21歳のころに、日本郵船勤務の小松総一郎さんとご結婚されました。

以降では、その後ののぶと次郎のネタバレをご紹介します。知りたくない人は閲覧注意です。

【あんぱん】次郎とは死別する?

次郎が死亡で死別のネタバレ

1945年終戦間際の広島県呉の海軍病院。のぶはそこに入院している次郎のお見舞いに来ていました。

次郎は肺病を患っていたのです。

再会を喜び合うふたりでしたが、さらに戦争は激化。

1946年1月。終戦から5か月たち、日本中が食糧難となり戦争孤児たちがあふれていました。

次郎の肺病も進行しています。

のぶは間違ったことを子どもたちに教えてきた、と後悔し教師を辞めていました。

次郎も大きな波にあらがう勇気がなかった、と語り、こう続けます。

大事な夢ができた

符号のようなものが書かれた日記をのぶに店、今度教えちゃうき、と微笑みました。

ですがその数日後、次郎は亡くなってしまいます。

さて、次郎のモデル、小松総一郎さんの史実とは?

小松総一郎の史実

総一郎さんと暢さんが結婚して間もなく、総一郎さんは一等機関士として召集され出征していきました。

短い結婚生活だったのでしょう。

終戦を迎え、総一郎さんは戻ってきましたが、病気で亡くなってしまいます。

死因などはわかりませんでした。病気があると出征できないので、結婚当時は特に病気もなかったと思われます。

ドラマでは肺病を患うので、もしかしたら結核などの肺病だったのかもしれませんね。

暢さんは総一郎さん亡きあとも、小松姓を名乗っていたそうです。

【あんぱん】のぶとたかしとは再婚?やなせたかしと暢の史実とは!

のぶはたかしと再婚する?

朝ドラ「あんぱん」でのぶがたかしと再婚するのか?というと、まだ公式ガイドブックではそこまで描かれていません。

ですがドラマのスタート前から、ふたりが夫婦になることが告知されているので、これから結婚することになります。

二人の出会いから結婚までの史実をご紹介します。

やなせたかしとの出会い

ひとり身になった小松暢さん。

1946年4月に、遺品となった大切なカメラを武器に、高知新聞社に入社しました。

高知新聞初の女性記者として『月刊高知』を担当。このとき暢さんは27歳です。

高知新聞が女性記者を応募し、31人の応募者のなかから筆記試験や面接をして2人を採用。暢さんはそのひとりです。

やなせたかしさんはその数か月後に入社され、社会部から月刊高知編集部に移動されました。

そこはベニヤ板で囲っただけの、お粗末な編集室です(^^;)

暢さんの真向かいに座ったやなせたかしさん。すぐに暢さんに好意を持ちました♪

好きになった理由をのちにこう語っておられます。

美少女タイプで弱そうに見えるが、実は体育会系。雷が鳴ると「もっと鳴れ!」と喜び、広告料金を払わない広告主にはハンドバッグを投げつけるようなハチキンなところ

暢さんも優しくて穏やかなやなせたかしさんに惹かれていきます。

優柔不断でおとなしいやなせたかしさんに、暢さんからアタックする形で、ふたりは交際を始めました。

ふたりを近づけたエピソード

やなせたかしさんが配属された月刊高知には、編集長と同僚、そして小松暢さんがいました。

あるとき東京に取材に行くことになり、やなせたかしさんと小松暢さん、そして男性2人の4人で向かいます。

取材の半分は観光旅行、といったもので、東京にある高知新聞支社の2階で寝泊りすることに。

当時は珍しかったおでんを闇市で購入し、男性3人は爆食いを始めます(^^;)

暢さんは竹輪やつみれなどを男性たちによそい、自分は大根やじゃがいもなどを食べました。

ところがこの竹輪とつみれが傷んでいて、翌日男性3人は食中毒に。

暢さんだけは無事で、数日間3人のため寝ずの看病をされました。

早く回復したやなせたかしさんと暢さんは、二人で取材をします。

暢さんの行動力や優しさなどに、すっかり惚れ込んでしまったやなせたかしさん。

ふたりで繁華街を取材していると、暢さんがある紳士に挨拶されました。

実はこの男性から求婚されているとのこと!

「どうしようかしら?」と聞く暢さんに、自分に自信がなかったやなせたかしさんは「結婚すればいい」と心にもないことを言ってしまいます。

なにせお相手の男性は、外国暮らしの長い紳士。

ですが暢さんは「やなせさんの赤ちゃんが産みたい」と(≧∇≦)

やなせたかしさんは強く暢さんを抱きしめ、キスをしました。

やなせたかしさんはこの人と結婚しよう、と決心したそうです。

そして結婚へ

暢さんは元上司で代議士をしている人物から、秘書になってほしいと頼まれ、あっという間に退職し上京してしまいます。

先に上京して待ってるわ

そう言い上京していった暢さん。振られた?とも思ったそうですが(^^;)、やなせたかしさんもその半年後、退職し上京しました。

4人家族の家を間借りした場所で同棲生活をスタート。子供の面倒もみながらの、あわただしい生活です。

出ていきたくても、インフレが激しく住む場所が見つかりません。

結局共同トイレの屋根に穴があいてるような、オンボロアパートに住むことにしました。

そんな生活でも「幸せ」だと言う暢さん。

やなせたかしさんは「もっと幸せになるさ」と。おふたりは幸せの絶頂だったようです。

こうしておふたりは1947年にご結婚されました。

まとめ

今田美桜さん主演NHK連続テレビ小説「あんぱん」ヒロインのぶは、父親の結太郎とも知り合いだという、若松次郎と結婚します。

若松次郎のモデルは小松総一郎さん。のぶのモデル、小松暢さんの最初の結婚相手です。

1939年におふたりはご結婚。総一郎さんは暢さんより6歳年上でした。

結婚して間もなく召集され、総一郎さんは出征していきます。

総一郎さんは戻ってきますが、戦後まもなく病死してしまいました。

翌年高知新聞社に入社した暢さん。数か月遅れでやなせたかしさんも、同じ月刊高知の編集部にやってきます。

明るく前向きな暢さんと、大人しくてマイナス思考気味(^^;)なやなせたかしさんは、惹かれあっていきます。

暢さんの方が強引気味に(笑)交際をスタートし、のちにおふたりはご結婚されました。

のぶとたかしものちに結婚することになります。

史実のエピソードが、ドラマのストーリーに盛り込まれるのでしょうか?

のぶとたかしの再婚ストーリー。どんな再会をするのか楽しみです!

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