三星百貨店のモデルは三越!やなせたかしの包装紙エピソードも!

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朝ドラ「あんぱん」

NHK連続テレビ小説「あんぱん」北村匠海さん演じる柳井嵩が就職した三星百貨店(みつぼしひゃっかてん)に就職しましたがモデルは三越でやなせたかしさんの実話です。

朝ドラ「あんぱん」三星百貨店のモデルは三越についてとやなせたかしの包装紙のエピソードなど史実をご紹介します。

三星百貨店のモデルは三越!

三星百貨店のモデルは三越

朝ドラ「あんぱん」柳井嵩(北村匠海)は、母の登美子(松嶋菜々子)の強い勧めで、のぶ(今田美桜)に内緒で三星百貨店の入社試験を受け、就職が決まりました。

もしかしたら登美子が裏で手を回した?(^^;)のかもしれませんね。

周囲の反応からも、三星百貨店に就職することは、庶民の憧れだったのでしょう。

ただ八木(妻夫木聡)は何とも言えない複雑な表情でしたが(笑)

この三星百貨店のモデルは三越です。断言できるのは、やなせたかしさんが三越に就職しているから!

三越とは

三越は呉服店を起源とする老舗百貨店。創業したのは1673年。江戸時代です!

三井高利が創業した越後屋から始まり、その後「三井呉服店」となり、1904年に「三」と「越」を取り「三越呉服店」となりました。

想像以上に歴史が長い三越。現在は国内百貨店は北海道から九州まで20店舗、海外店は東南アジアを中心に23店舗を展開しています。

三越の包装紙

モチーフは石だったんですね(≧∇≦)包装紙の文字は、やなせたかしさんがデザインされました。

この史実は朝ドラ「あんぱん」でも描かれましたね。

猪熊弦一郎画伯デザインによる「華ひらく」の包装紙を全店で使用開始したのが1951年7月。

やなせたかしさんのエピソードはこの後でご紹介します。

猪熊弦一郎さんは香川県出身で、マティスに学んだモダン派の画家。

東京美術学校に進学し、藤島武二教室で学びました。

帝国美術院第7回美術展覧会に初入選。以後、第10回、第14回で特選となるなど、1934年まで主に帝展を舞台にご活躍。

1938年にフランスで学び、1940年に帰国。1948年に小説新潮の表紙絵を1987年まで続けられました。

1950年に包装紙「華ひらく」をデザイン。当時は破格の報酬で話題になったそうです。

1951年に国鉄上野駅(現 JR東日本上野駅)の大壁画《自由》を制作。

1955年に拠点をニューヨークに移し、20年間制作をつづけました。

1973年一時帰国のときに脳血栓で倒れ、ニューヨークのアトリエを引き払い、東京で制作を続けます。

冬の間は温かいハワイで過ごされました。

1989年に丸亀市に1000点を寄贈され、1991年に丸亀市猪熊弦一郎現代美術館を開館。

1993年に90歳でお亡くなりになりました。

華ひらく

三越の包装紙「華ひらく」がデザインされたのは1950年。元々はクリスマスプレゼント用としてデザインされました。

ですが1951年から、全店で常時使われるようになったそうです。

丸みを帯びた柔らかな象徴形が、幾度にも集う斬新なデザイン。

シンプルでありながら、包むものを引き立てるデザインは、半世紀を超えて三越のシンボルとして愛され続けています。

原画は平面ですが、物を包んで立体になったときの表情の変化も魅力のひとつ。

どの角度から見ても、図案の美しさが変わらない画期的なデザインです。

これまで茶紙が主流だった百貨店の包装紙に、革命を起こしました。

華ひらくのモチーフが生まれたきっかけは、ふたつの石。

猪熊氏が千葉の犬吠埼を散策中、海岸で波に洗われる石を見て「波にも負けずに頑固で強く」「自然の作る造形の美しさ」をテーマにしようと考えたことが始まりです。

戦後、これからの時代は包装紙も自分をアピールするような強いものでなければならないとの理由から、鮮やかな朱一色の「スキャパレリレッド」が用いられました。

そして当時三越宣伝部の社員で後に漫画家となるやなせたかし氏により「mitsukoshi」の筆記体が書き入れられました。

こうして完成した「華ひらく」はその作品名にふさわしく、商品を包むと花がひらいたようにパッと雰囲気を華やかにさせ、多くの人へ笑顔を運んでいます。

引用元 三越

やなせたかしが三越に就職した理由

高知新聞社を退社し、上京して漫画家を目指していたやなせたかしさん。

奥様の小松暢さんは、やなせたかしさんが漫画家になるまで養うと宣言されたそうです。

ですが慎重なやなせたかしさんは、生活の安定のため、知人のつてを借りて図案制作のアルバイトをしながら、就職先を探していました。

暢さんの言葉に甘え、漫画を描くことに集中することもできましたが、漫画家としての芽が出なかったら・・・。

ゆくゆくは暢さんに捨てられるのでは?もしそうなったら、自分の脆弱な神経では耐えられない・・・とやなせたかしさんは考えたそうです。

上京して半年が過ぎたころ、日本橋三越が宣伝部拡大のため、社員を募集しているのを知り、やなせたかしさんはすぐに応募しました。

給与や待遇は良く、潰れる心配もない。生活の安定を手にすることができると思われたそうです。

これまでやなせたかしさんは、試験では不思議とツキに恵まれてきたそうで、このときもそうでした

口頭試験の面接をした重役の井上さんが、たまたま高知県出身者。

当時のやなせたかしさんは、ご自身が認めるほど生意気だったそうで(^^;)、口頭試験の印象は良くなかったとか。

一度は落とされた、という話もあります。

高知は仲間意識の強い土地柄で、井上さんの強い推しで採用が決まったそうです。

 

三越でのやなせたかしの包装紙のエピソードとは?

やなせたかしさんが、三越に就職してからのエピソードをいくつかご紹介します。

ボロボロの館内

やなせたかしさんが入社した1947年10月のころは、戦後の不況からまだ抜け出せない状態で、店内もボロボロで商品もスカスカ。

三越といえど、戦後はやはりボロボロで、やなせたかしさんは一歩足を踏み入れがっかりしたそうです。

物資がないため建物のメンテナンスもできず、どこの売り場も商品はスカスカ。

食品売り場も乾物や漬物しかなく、下町の商店のような有様でした。

戦後から2年あまりが過ぎても、まだ復興は程遠い状態です。

上の階は事務所として使われ、その一角に宣伝部があり、そこでやなせたかしさんは勤務することになりました。

やなせたかしさんはそのときこう思われたそうです。

商品がないのに何を宣伝するのだろう?仕事なんてあるのかな?

最初のころはあまり仕事がなかったそうですが、店内の装飾や、看板のデザインなどをしたほか、大きな絵を描くこともあったそうです。

三越には三越劇場もあり、文学座の演劇ポスターも描いたりしていました。

復興していく日本

このころから日本は、すさまじい勢いで復興していくことになります。

食糧事情も良くなり、寒さで餓死する人もいなくなりました。

鮮やかな布地が出回るようになり、洋裁ブームが起こり、街では洋服姿が増え、モンペ姿が減少していきます。

三越の売り場も商品が充実してきて、催事やファッションショーの開催も。

宣伝部もポスターやパンフレットの制作で、やなせたかしさんも忙しくなっていきます。

包装紙制作

三越では包装紙が刷新されることになり、猪熊弦一郎さんにデザインを依頼します。

締め切りの日に、デザインを受け取りに行ったのがやなせたかしさん!

猪熊弦一郎さんはやなせたかしさんにこう言ったそうです。

場所は指定してあるから「MITSUKOSHI」の文字はそっちで描いて

仕方がないので、やなしたかしさんが文字を入れ、社長や重役たちにデザインを提出しました。

最初は「手抜きだ」と怒られましたが、猪熊弦一郎さんのデザインと知ると、手のひらを返し賞賛されたそうです(笑)

ツッパリ社員

それなりに収入も増えたやなせたかしさん。やなせたかしさんの著書「アンパンマンの遺書」で、三越時代の章のタイトルが「ツッパリ社員」でした(笑)

漫画家になるため雑誌や新聞の漫画に応募をしたり、イラストやカットを描く副業で腕を磨いたりしていました。

独立したい気持ちもありますが、まだ自信が持てないまま、だんだんと態度が悪くなります(^^;)

会社で副業の漫画を堂々と描いたり、私用電話をかけまくったり、三越本館の劇場で演劇を見たり・・・。

近くの喫茶店でサボっているのを、よく目撃されていたそうです(-_-;)

生意気だ、と思う人もいたそうですが、やなせたかしさんは気にしません。

どうせすぐに辞めるつもりです。当時のことをやなせたかしさんはこのように綴っておられました。

あまり気乗りのしないまま、新巻鮭の絵を描いたりしていた

自由主義で、極端に束縛されるのを嫌がるので、僕のような部下を持ったら、僕でさえ我慢ができなかったに違いない

人間みなおなじ、という主義で、わざと部長より高いお弁当を食べたこともあったとか(^^;)

やなせたかしさんがちょっと荒れていたのは、自分より若い漫画家たちの活躍もあったようです

そんなときに三越である事件が起こりました。

退社へ

1951年に日本の百貨店として初めて、三越でストライキが起こりました。

このとき「三越にはストもございます」という垂れ幕が出たそうです。

やなせたかしさんはこのとき静観していたそうですが、左翼に仕切られた労働組合側の傲慢さにムシズが走ったといいます。

結局ストは会社側が勝利しましたが、両者の対立はしばらく続き、やなせたかしさんはその状況に嫌気がさしました。

漫画雑誌も新創刊が相次ぎ、描き手の需要も高まりを見せ始めます。

やなせたかしさんも副業の依頼も増え、三越の給料を上回るように。

もうやめても大丈夫かな?

やなせたかしさんは34歳の1953年3月に三越を退社しました。

このときも暢さんは「収入がなければわたしが食べさせてあげる」と仰ったそうです。

やなせたかしさんが三越に在籍したのは、6年くらいでしたが、いろいろなことがあったんですね。

漫画家になるという強い意志と、暢さんの支えがあり、のちにアンパンマンが生まれることになります。

まとめ

NHK連続テレビ小説「あんぱん」三星百貨店のモデルは三越です。

柳瀬隆のモデル、やなせたかしさんは生活の安定のため、漫画家を目指しながら三越の宣伝部に就職。

当時の三越は戦後から復興できていませんでしたが、間もなくものすごい勢いで日本全体が発展していきます。

三越の新しい包装紙をデザインした、猪熊弦一郎さんの元に原稿を取りに行ったやなせたかしさん。

MITSUKOSHIの文字を入れるように頼まれ、仕方なくやなせたかしさんが文字を入れ、会社に提出しました。

この包装紙は、現在も三越のシンボルとして愛されています。

年齢を重ねるうち焦りもあり、三越で起こったストライキを機に退職し、独立されました。

朝ドラ「あんぱん」で描かれた、三星百貨店の包装紙のエピソードは史実に近く描かれました。

これから会社での態度が悪くなる(笑)北村匠海さんの「ツッパリ社員」姿が見れるのでしょうか?

どんな史実が織り込まれるのか楽しみです!

朝ドラ「あんぱん」
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